JPLNM※                                昭和五十四年八月八日 朝の御理解
御理解 第七節 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地は         はやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の         心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」 信心はせんでもおかげはやってある。というおかげを分からせて頂く事が金光教の信心の先ずは、分からなければならない所だといわれております。
 信心はせんでもおかげはやってある。だからそういうおかげという事を、先ずは分かる事だと。まあ、いうならば、天地の大恩を知る。もう、生きとし生きる者、これは人間だけの事ではない。生きとし生きる者の上に、そういう、高大無辺のおかげというものがあっておるけれども、それを気付かなかった。
 金光様の信心をさせて頂くようになったら、それに気付いた、分からせてもろうた 実感として、天地の大恩に対して、神恩報謝の心が生まれる。そこから金光教の信心がはじまる。信心はせんでもおかげはやってある。所がなかなか分かりません。
 天地の大恩が分かれば、もう子孫も続き、身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげが受けられる。といわれる程しのものなんです。頭で話を聞いただけでなる程そうだなあと分かる程度なら、誰でも分かる。
 その第一人者であられたのが甘木の初代だと思うですね。天地の大恩、御恩徳という事を終始説きぬかれたわけです。しんから有り難いと思われておったから、誰よりも、神恩報謝の心が篤かった。その有り難いという心が、誰よりも篤かったから、誰よりも、大変なお徳を受けられた。又お徳に潤うたもの、数知れずという程しであった。ですから、ここん所を私共が、実験、実証によって本当に天地の御恩惠、なる程信心はせんでもおかげはやってあるというのはそれ。
 だから、そこん所が分かる実験を、そして実証を、実感として頂けれる。そこから甘木の場合は、一切が神様の御物だと、だんだん信心をお進めになられたのですよね 自分の物とは何一つ無い。一切が神様の御物だ。それこそ枯れ葉一枚だって、天地の親神様の御恩恵のこもったものだと。
 ある時に、修行生が、大変燃料の事をしまつ倹約なさる、それこそ天地の親神様の御物だから大事にせろという意味、ただ、しみったれていわれるのじゃないので、ある時修行生の方が、もう今日は燃料は、使わずにあれだけ広い境内ですから、枯れ葉枯れ枝がいっぱい落ちる。きれいに拾い集めて風呂を焚いた。そしたら、安武先生が「今日の風呂は誰が湧かしたか」ちいわっしゃった。で、今日は褒められるとじぁちと思うちからと思うていうた所が、「今日の風呂は沸きすぎる」ちおっしゃった。
 勿体ないじぁないか、こんなに熱く湧かしては。「いいえ、先生今日はもう金で買うた燃料は全然使いませんでした。枯れ葉やら、枯れ枝やら、落ちとるとを拾い集めて今日は焚きました」ち、といったら、それこそ気色ばんで、修行生にいっておられる事が、「枯れ葉、枯れ枝は天地の親神様の物じぁなかつな」と、おっしゃったそうです。ね、
 銭で買うたから大事にせんならん。落ちとったつば拾うて来たけんそれで、なんぼ焚いてもよいという事はない。枯れ葉、枯れ枝は天地の神様の物じぁなかなというてお叱りなさったという話が、それこそ、伝説のように残っております。
 それほどしに、天地の大恩、天地の御恩徳というものを感得しておられた。知っただけではいかん。ね、だから御自身、例えば、お風呂に入られても、タオルをこうしぼり切る事はなさらなかったという。そこまで歩かれるとでも、必ず、下駄をこうやって穿き替えられる程しに、いうなら御物としての大事をなさった。だからそういうね、一つの神の大恩を分かる為には、そういう実験をしてみなければいかんのです。 もう、話のような話ですけれども、今の甘木の親先生なんかは、お風呂の蓋を半分しめてそして、ここに入られるそうです。湯気が勿体ない。これは、おじい様であられる所の初代が教えに教えておられた事だから、そういう実験をなさっておられるわけです。
 そこからです、いうならば、それこそ自分でも知らなかった、分からなかった、体を心を通して、なる程、天地の親神様の御恩恵のものだというしるしを感じる事が出来るようになるんです。
 金光教の信心は、だから実験を惜しんだら、おかげは受けられません。教えを守らなかったら、おかげは受けられません。お取り次ぎを頂いてお願いをしました。
 何十年、いうてもそれは、おかげであってそれがいうなら、日勝り、月勝り、年勝り、代勝りというおかげにはならんです。ね、さあ、病気が治りました。こげなおくり合わせ頂きまた、というおかげならお取り次ぎ頂けば、お取り次ぎのいうなら、金光大神のお徳によっておかげを受けるでしょうけれども、ね、それがいよいよ、あの世へも持って行け、この世にも残しておけるというような御神徳は頂けないです。
 だから、どうでも実験しなければいけん。それを合楽では、一切の事柄に「御」の字をつけるという生き方をするのです。ね、「事柄」事柄そのものも、天地の親神様が私共一人一人に実をいうたら下さっておるのです。苦い事もありましょう、甘い事もありましょう。痛い事、痒い事もありましょうけれども、神様が、私に差し向けて下さった事柄として、合掌して受けていけとこういうんです。
 そこで、天の心、地の心という事がいわれるのです。いうなら、土の心で限りなく受けて、受けて、受けぬいて行け、というふうに申しますよね。
 私は、今日まあ、この、御理解を奉唱しながら感じた事ですけれども、天地日月の心になる事肝要と仰せられるが、私共は、天地、天地というて、天の心、地の心ばっかりいうておるから、本当の事にならんのじぁないだろうか。日月の心を先に頂くべきじぁないだろうかという事を、私は感じさせて頂いとります。今日は。ね、
 日月の心といやぁ、それこそ、まあ、お天とう様がね、一分一厘間違いのない運行天地の運行の中にですね、毎日々それこそ、教祖様じぁないけれども、お休みの日も返上してお働きになった。お天とう様はそれこそ休む事もなしに、お働き下さっておるのに、私共だけ休んじぁ勿体ないという御精神だったらしいです。ね、
 ですから限りない、私共が実意丁寧神信心という金光教独特のやはり言葉も、又、生まれたのだと思います。                           天地日月の心になる事肝要。「日月」お月様のという事は、それこそお盆のようなと申しますでしょう、お月様は。円い、いうならば、お月様だけれどもね、ある時は三日月さん、ある時は半月さん、ある時はくれの闇という事になるわけです。
 だから、いうならば、円い心になる事に精進する、天地日月の心、いうならば倦まず絶ゆまず、それこそ実意丁寧な信心をするという事が先ず先でなければならん。そして、天の心を聞いたならば、地の心を聞いたならば、もう本当に、地の心、天の心にならなければおれない心が、生まれてくるのじぁないかと思うです。
 だから天地日月の心という事をね、日月の心を先に身につけるというそこに、信心辛抱が要るという事であるし、又は、心行、信行、家業の行が行とならなければいけない。
 昨日福岡からお礼に出て来た。もうこの頃何か、どうも仕事がスム-ズに仕事が出来ません。だから仕事が不愉快で、又この仕事をせんならんという感じです。というから、あんたが御理解の頂きが足らんよと。合楽では、それこそ家業の行という事をこれ程いわれるのだから、それにはもう、めったに参って来ない人ですけれどもね。 家業の行といわれるからね、仕事にかかられる前に、先ずね、家業の行を今日も行をさせて頂きます。ほかの宗教は、さあ、水をかぶったり、火の行、水の行ですらするじぁないですか。金光教はそういう行をせんかわりに、家業そのものを「行」。
 だから、これをこれだけしたら、いくらになるといったような事を一ぺん捨てきってね、今日も行をさせて頂きます、生神金光様という気になったらどうだろうかね。 それが、家業の行として受けて下されば、仕事の方も順調に行くよというて話とりましたら、昨日お礼に出てみえました。もう仕事にかかる前必ず、今日も一日信心修行さしてもらいますというて、嫌であるその仕事も修行と思うてだんだんさして頂くようになったら、調子が出て来たとこういうのです。
 「修行ちゃ大した事」はあ、修行ちゃ大した事だよ。信心には修行はつきものとおっしゃるから、修行なしにおかげ頂こうてんなんてん、信心を分かろうなんてんいったって分かりぁせんよ、というてお話しいしい又自分も、この家業の行だけは忘れずにそうしたい。そして、他の二人の従業員の方のお取り次ぎも頂いて、この人達にもこの事をどうでも教えてやらなきゃならんからというて、二人の名前を改めて又お取り次ぎ頂いて帰られたんです。                         行だから楽な事はない。行と思うてさして頂いとる中に、いうならば、調子も出てくる、楽しさも生まれてくる。今日は、思いもかけない仕事がはかどったというおかげにもなるというわけなんです。ね、
 いわゆる私は、日月の心とはそういう事だと思う。昨日は、総代会でしたから遅うまでまあ共励を致しましたが、信徒会長がこういうお話をしておりました。この頃、どこの会合に行っても、合楽的になったというお話をしておりました。
 お話も合楽的お話になった。だから、合楽ちゃ、いおごつでんなかごたる人達ばっかりですから、合楽ちゃ、いわんけれども、そのする事がもう合楽の信心に神習うとならなければ、そういうおかげは受けられんというような教会が、だんだん増してくるし全部そういうおかげを頂いておる。どこへ行っても確かに、合楽に傾倒して来たという話をしておりました。
 初代安武先生のおられる時には、もうどこも何かしらんけれども、天地の大恩、天地の大恩といったような事が盛んに、私共久留米関係はちがうけれども、やはり、天地の大恩といっておりましたように,今、合楽ではそのいっておる天の心、地の心いうならば、合楽理念に基ずいての生き方というような、生き方をしている教会は必ず御比礼が立っておるという。その中にです、先日の信徒会の時に、西原教会の総代さんでもう長い熱心な信心をしておられる信者さんがおられますが、この頃から自動車事故に遭われた。自分は歩いて行っておられるのに、まあ、免許取立の若い青年の車ではね飛ばされなさったわけ。
 すぐ病院に行って治療を受けるその一番はじめに、私が思うた事、というて話されたそうです。もう、今が五十四、五、位でしょうか。もう、この災難をおかげにしてゆく為にはね、これからは、いよいよ以てもう、教会の御用だけに専念しようと、これが体が動かんごとなって思うた事の第一番だったとこういわれる。これからは、いうならば、忙しか時ならもう忙しございますを楯に、御用も出来なかったけれども、これからは、私の生涯をもう、教会の御用、総代として御用を本気で承ろうと思うたのが、病院に連れて行かれて一番に思うた事でしたち。ね、
 毎日、相手の方がお見舞いに見える。そしたら、その方が天理教の信者である事が分かった。そしたら、その翌日には、天理教の教会長の先生というのがお見舞いとか今日お礼に来たちいわっしゃった。もう、あのう、青年の親は熱心に天理教の信心をするんですけれども、あの、息子だけがどうしてもお参りしませんでした。
 そしたら、貴方にこういう事故を遭わせる。それを機会にね、毎朝、朝の御祈念に参って来るようになりましたというて、その天理教の教会長先生がお礼に来なさった 嬉しかったですなあ、そういうかかわりが出来て、そういうおかげになってそれが有り難かった。そして不思議な事が起こり出した、病院に。というのは、どいうい事かというと、今日はそうめんが食べたいなあと思うておると、必ずそうめんが上って来るという。今日はパンが食べたいなあと思うておると、必ずパンが上って来るという。もう、そりゃ、本当に神様の御守護の中にある事が、これだけでも分かったという話を教会に帰ってなさった。
 所が、そこにおばあさんの大変熱心な、もう、それこそ、あそこの教会はあのおばあさんでたってる、というような立派なおばあさんの御信者さんがおられるのです。 そしたら、00さん、総代さんの名をいうてね、00さん、そういう確かなまちがいのない働きを受けたもんなら、もちっと、大きな事を願うたらどうかといわっしゃったげな。その大きな事が、なら、大きく、例えば、今日はそうめん食べたいなあと思うたら、そうめんが集まって来たように、はあ、きょうは御用さしてせらわんならんけんと、例えば御用なら御用の事を思うたら、御用が出来るようなおくり合わせを頂く。だから祈りを大きくしたらどうですかと。信心が成長するという事は、そういうまちがいのない、いうなら合楽でそれをいうならば、リズムに乗った生き方、それはどこから生まれたかというと、もうこれからは、御用に専念しょうと腹を決めた。 途端におかげ頂いて、あれもおかげ、これもおかげと思うような事実。同時に日々のそういう食事の上にでも、神様が私の心を見通しておられるかのような働きが起こってきたとこういうのです。実に合楽的だとこういうのです。
 だからそういう家庭生活の上にでも、素晴らしいリズムが出て来ておるならばですね、なら、健康の上にだって又は、経済の上にだって、大きな願いを立てたなら、例えば、大きな願いの中に、そういうリズムが奏でられる、そのリズムに乗って、大きな信心も出来りぁ、大きな御用も願いなさいといわれてなる程と感じたという話を、先日信徒会でなさったという話を昨日秋永先生がしとりました。
 なる程合楽的になって来たとそういう事から、まあ、そういうふうにいったのでしょうね。私は、その話を聞きながら、そして今日の御理解を頂きながら、天地日月の心になる事肝要だという事がです、先ず日月の心になる事が肝要。
 総代でもお取立頂く位ですから、それこそ熱心な私も前からよく知とります。ですから、元は東町教会の総代でした。けども、あちらが、御兄弟になりますからね、あちらの西原教会が出来た時に、その教会の近所であったから、その総代さんを向こうの総代としてまあ、譲られた。兄弟の仲ですから。ね、大先生はお母さんになるわけです 西原の今の親先生はお母さんになられるわけです。そんな事で私は、東町時代から熱心であった事は知とりましたが、その熱心であったというその信心がそのまま日月の心じぁないでしょうかね。
 それが例えば、我情我欲のであったかもわかりませんけれどもね、それこそある日突然ね、何かがそこに起きた。その時にはじめて日頃の日月の心がね、次の信心に心の目を開かせたという事になるのじぁないでしょうか。それこそある日突然です。
 私共が日月の心、日月の心、というようなそういう信心修行が出来ていって、そして、合楽でこんなに天の心、地の心という事がかんでふくめるように、まあ、具体的にある時には、大変難しゅう、ですけれども、今まで聞いた事もなかったような、新たな信心を聞かせて頂くわけなんですから、そういう信心を日月の心を土台にして、飛びつくように、地の心、天の心というような信心に、そういう意欲が燃えてくると思うです。はあ、毎日、毎日その方なんか何十年です。
 お参りしておったがです、ね、しかも、総代にお取立頂いて、何十年ぶりにです、自分のこれからの生涯というものを、教会の御用にというふうに思えた。それこそ、ある日突然そういう心が開けた。開けて来たら自分の心の中を見すかしておられるように、神様が、いろんな意味でおかげをはっきり見せて下さるようになった。
 だからそういう願いをもっと大きくしたらどうかと、まあ、総代さんの先輩の総代さんにいわれて、そうと思いましたという体験発表であります。
 ですからね、そういう信心がでけておって、はじめて、天の心、地の心を聞き、いわゆる合楽理念を聞いたならです、合楽理念を行じなければおられない事になってくるのじぁないでしょうか。ただ、天の心、地の心ばかりをここでは説いておりますからね 日月の心という、いわゆる実意丁寧神信心を先ずはさせて頂いて、その上に立つ所の天の心、地の心であるという時にです、はじめてね、いうならば、本当のおかげ、いうならば、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというおかげが頂けると思うんです。
 その根本になるものは、信心はせんでもおかげはやってあるというおかげをです、そういう実験の中から、実証していって、なる程この神様のおかげを頂かなければ、もう手は無い、という頂き方。この神様のおかげを受けなければ、もうそれこそ、ここ、一寸動く事でも出来ないんだと分かる時、いわゆる「障子一重がままならぬ人の身」であるという事がわかる。
 それを実験、実証していわゆる心にね、それこそ、ある日突然その悟りが開けて、それが、金光教の信心の根本ともなって、天地の大恩にたいして、神恩報謝の心をもってね、実意丁寧という信心が生まれてくる。
 お天道様にこれ程しのお働きを頂いとる私共だ。人間もやはりそれに神習はにゃならんといったようなね、いうならば、働きが起こってくる。その上にいうならば、樹立される所の信心がいわば、天の心というのじぁないでしょうか。そこに、いうならば、合楽理念が、完璧だといわれるその完璧の信心というものが、十全の教が、十全の教たらしめる修行というものがね、出来てくるのではないかと、こう思います。
 今日はしきりに、私は、昨日から今日にかけての事柄を思うてです、天地日月の心になる事肝要だという前、いわゆる、天地じぁなくて日月の心になる事を一つ精進さしてもらい、それを家業の上に、心行の上に現していきたいと思いますね。
                               どうぞ。